強くポジティブだった母の教え【誰も命までは持っていかん】

ちょっと、母親の話題が出たので、母親の話をしたいと思います。

私の母は、19歳で姉を産み、20歳で私を産んだ。

だから、今でもまだ40過ぎた娘が居ても62歳で、気持ちも格好も若い。

この母は、近年稀に見るポジティブな人間で、この母にしてこの子あり…と、救われた部分が沢山ある。

ポジティブ通り越してちょっとアバウトすぎる所もあるけれど。

この母の口癖は、 【誰も命までは持っていかん

何があっても、 失敗しても、間違ったことをしてしまっても、誰も命までは取って行かん。

それが、母親のモットー

私の座右の銘の「死ぬこと以外かすり傷」というのは、母の教えから来ているもの。

とにかく、どんな辛いことがあっても、死にはしない。

生きていればなんとかなる

それを子供に伝え続けた。そんな母です。



母自体、若い頃に結婚し、私は会ったことはないけれど、姉と私のは、浪費癖がすごく借金あるわ、お酒は飲むわ、暴力振るうわで、大変な父だったらしい。

身の危険を感じた母は、やっと歩ける私と姉を、真冬に、雪積もる中、手を引いて、父の元から逃げたらしい。

私達を守るために

父が追いかけてこないか、何度も何度も、振り返った。

その時に、自分の足跡と並行して、歩幅の小さな小さな足跡が並んでいる雪道を見て、申し訳なさに泣きながら 必死で歩いたという。

そして、昼はパート、夜はスナックで働きながら、私達が、小学生になる頃まで働いて育ててくれた。

その頃、スナックの常連さんだった人と再婚。

私たちは、お父さんを得ることが出来た。

シングルマザーだった頃は、大変だったと思う。

育ての父は、自営業で、その当時バブルだったので、働けど働けどの現在と違って、仕事さえしていれば、しっかりお金が貯まりとても儲けていた。

一回り離れた妹も出来た。

お陰で高校も卒業出来、姉も私も専門学校に行くことが出来た。



しかし、私が高校生の頃から、バブルが弾けつつあったらしい。

子供の頃って、親って仕事しているものだと思っているし、親がどうやりくりしているかなんて、さほど気にする時期でもないので、後々分かったことだけれど、実は育ての父は、バブルを忘れられず、バブルが弾けつつあって、仕事が薄くなった後は、「安い仕事は出来ん」と、儲けの少ない仕事を断っているうちに、仕事が無くなって、実質会社を潰していたらしい。

それでも、全然それを感じさせなかった。

機械や、トラックなどの借金だけが残った。

母はいつ頃からか、内職をしていた。

それでも、さほど娘達は、父親の仕事がどーこーっていうのは気にしていなかった。

今だから言えるのは、高校3年間は、母の内職のおかげで、卒業出来たみたいなものだった。

この後のお話はこちら



起きてしまったことは変えようがないけれど、そこから学ぶことは出来る】と、母親は言っていた。

父親の仕事もそう、仕事が薄くても、やはり大変なのはどこも一緒で、儲けが少なくてもやはり、一生懸命取り組んでいれば、其の仕事は、また次の仕事に繋がり、借金だけが残り、どこからも仕事の依頼がなくなるということは避けられただろう。

それを学び、母は、やる気になればなんでも出来る、子供のために、寝る間も惜しんで内職をしてやりくりをしてくれた。

ふと、トイレに起きた時、明け方まで、内職をしていたことを思い出す。

結局は、仕事もせず、ギャンブルばかりし、消費者金融で何社も、借金をし続ける育ての父に、愛想をつかし、40過ぎで離婚しているのだけれど、母が知らずに、保証人にされていた借金を返していた。

それでも尚、母は強く、無駄にポジティブだった。

何があっても、誰も命まではとっていかない、生きていればなんとかなるもんだ。

もっと大変な人は沢山いる」そう、笑う母は、私の知らない苦労を沢山したのだと思う。

苦労をして、得たものが、今につながっていて、母は、私にとって、最高の人生の師匠だと思う。